みけ猫のロック

駆け出し漫画家と、占星術な日々

冷蔵庫のネガフィルム

*2021年10月某日の日記より

ネガフィルムの入った大きな冷蔵庫を、ふと思い出す。いつか家族が増えることを想定して買った、新品の大きな冷蔵庫。二人分には大き過ぎたから、一番上の段にネガフィルムを保管していた。

久しぶりにフィルム写真でも撮りたいなぁなんて考えていたら、なぜかあの冷蔵庫の中の光景を思い出した。もはや結婚も離婚もすべてが懐かしいなと思える程度には時間が経ったし、次の人生を始めている。自分がバツイチだということすら、年齢と同じようによく忘れてしまう。

大きな冷蔵庫は、離婚したあと義実家に引き取られていった。無駄にはならなかった、新品の大きな冷蔵庫。

 

 

(2023/07)
結婚当時大きな冷蔵庫を二人で買いに行ったこと、その冷蔵庫にネガフィルムを保管していたこと。こんな些細な日常風景は、こうして日記に書き残していなければきっと二度と思い出すことはなかっただろう。

あれから数年経った今、私は都合の良いフィクションを描くことを仕事にしている。過去の経験を手繰り寄せては、当時の感情だけを思い出して拾って、物語の中に落とし込んでいる。喜びも怒りも悲しみも苦しみも、人生で感じたすべてが私の糧になる。糧にしてやるという気概でやっている。

止まっているときも後退しているときでさえも、どんな経験も無駄にはならない。
そう思うことで、苦しい時間もなんとかやり過ごす。

 

結局時間が経ってしまえば、色んなことを忘れてしまう。付き合って別れた人たちの顔ですら、ぼんやりとしか思い出せない。似顔絵も描けないと思う。

あと10年経ったら、あの大きな新品の冷蔵庫の色もきっと思い出せなくなっているんだろうな。今生きている日常もまたいつか、同じように二度と戻らない非日常になってしまうのだろうな。

 

でもきっとこの文章を読んだら、あの時の気持ちだけは思い出す。万が一思い出せないくらいすっかり忘れていたとしても、あの時の感情に会いに行くことはできる。

中学生の頃から誰にも見せなくてもブログや日記を書き続けているのは、そういう記憶に価値を感じているからなのかもしれないな。

 

昔はなんとも思っていなかった実験的な写真が、今になっていいなと思えたり。その逆もあったり。どんな表現手段でも「形に残す」という行為は、自分の現在地を感情の記憶と共に未来に残すということなのだろう。