「わかってほしい」と思ってしまう欲求について〜商業漫画を制作する上での壁
先日「苦しかった負の体験すらも、自分の価値にしていこう」というような内容のエッセイを書いた。
この気持ちは変わっておらず、私の人生の哲学の一つであるのだが、漫画というエンタメを描く上では足枷になってしまうこともあると気がついたので、忘れないように戒めとして書き留めておこうと思う。
先日担当編集さんと話していて、指摘されたことだ。
「必然性のない不幸や障害を主人公に用意する必要はない」
この言葉を聞いて、今まで自分の陥っていたパターンを自覚して胸のすく思いがした。
言い換えれば、「ネガティブなことで話づくりをしないように気をつける必要がある」とのことだった。
例えば起承転結の「転」の部分で、必然性のかけらもない変な誤解をさせたりとか。突然の死や事故に遭うだとか。
おそらく「マイナスな出来事を起こさなければという刷り込み」が、一定数の初心者にありがちなようなのだ。
状況が変化していけば、主人公は必然的に何かしらの壁にぶちあたることになる。そうした壁にぶち当たって下がるのはいいのだが、作者がわざわざキャラクターの気持ちを下げるような状況を作る必要はないとのことだった。
ふむ。それこそが「キャラが動く」ということなのかもしれない。
私これ、めちゃくちゃやってしまっていたなぁと。物語としてカタルシスを作るために、その前には下げる状況をつくる必要があると思い込んでいた。
しかし映画ならともかく、漫画は年単位で連載が続く可能性がある。特に恋愛漫画のようなものは、あまり先の展開を考えすぎずに、キャラが動くままに感情を拾って描写していった方がいいのかもしれない。私の想像以上に、漫画のキャラクターの生き様とは作為的ではないのかもしれない。
わかってもらいたい、と思ってしまう
私の作品は、放っておくと暗い方向に向かっていってしまう自覚がある。
どうしてキャラを追い込みたくなるのだろう。それはおそらく、冒頭にあるような自分自身の「負の体験」が背景になっているのだと思った。
おそらくすべての原因は「わかってほしい」という想いなのだ。
生まれてきてからこれまで体験してきた負の体験。もちろん特段不幸だとは思っていないけれど、それでも私にとってはなかなかにハードモードな人生だった。私はまだ、このハードな体験の数々を消化しきれていないのかもしれない。誰かに語ってきたわけでもなく、自分自身の中だけで消化しなければいけないことも多かった。
だからきっと、「誰かに私をわかってほしい」という欲求があるんだろう。
もちろんこうした欲求が私を創作活動に向かわせるのだろうし、そうした創作者の方々はたくさんいるのではないかと思う。かつて私が参加した漫画家養成プロジェクトでは、自分の負の体験を語り合い描きたいものを引き出す、というワークショップもあったくらいだし。
でも、私が作っているのはあくまで「エンタメ」なのだ。
物語を通して、読者に没入してもらって感情を動かしてもらうことが目的なのだ。
そんなエンタメにおいて作者をわかってもらう必要性は皆無だし、むしろそんなものはノイズでしかない。もしそれがやりたいのであれば、悲劇的な自伝小説を書くほかない。もちろんそうした自伝小説に需要があったり、エンタメとして魅せられるだけの技術があれば、の話だが。
商業でやっていく以上、作者のわかってほしい気持ちなんてどうでもいいのだ。そういう類の創作は、同人誌や自主制作でやればいい。
わかっていたつもりだったけれど、商品化できるレベルの作品を作ろうともがけばもがくほど、商業作品と同人誌の違いについて深く考えさせられる。
(とはいえ、何にも忖度しない、創作欲求のエネルギーが純粋に立ち現れてくる同人誌って読むのも描くのも大好きなんだけどね。)
それにしても、こうした言語化をできる現在の担当編集さんは、ご自身の仕事のやり方や仕事哲学がしっかりあるのだなぁと思う。担当編集さんは本当に十人十色で相性が合わない人もいる中で、作家の個性を引き出して商品レベルに引き上げてくれる腕のある方に担当していただけているのは本当に幸運なことだ。今のうちにたくさん吸収したい。
負の体験を糧に、誰かを明るく照らせる人間になる
おなじみ占星術の話になってしまうのだが、「太陽を生きる」ってそういうことなのかもしれない。負の体験を語るだけでは、誰の心も照らせない。
負の体験をバックボーンにしたうえで、どんな方法で他者や社会に明るい光を届けていくか?太陽を生きる上で考えていく必要があるのは、そこなのかもしれない。
私は作家としてもまだまだ稚拙の塊でしかないし、太陽もまだまだ生きられていないのかもしれない。改めてそう自覚した出来事だった。
こうして気づくことのできる環境に感謝しながら、引き続き私だけの太陽の光を模索していこうと思う。